格言創作のすゝめ ~常識なんて、所詮はタダの多数決。常識は自分でつくるもの。大学生ならなおさらだ!~
人は、若いころに於いては何をするかであり、延いては老いるまでに何をしたかである。
この人は、私が尊敬している偉人の一人ですが、数々の偉人たちの名言というのは、その文字の一つ一つが楽譜のように美しく、そして真理の深い部分を突いていたりして、時にハッ!っと気づかされることがありますよね。
かくいう私も、いろいろな名言に心を奪われてきた内の一人です。
「名言はその人の歩いた生きざまの結論である、だから心に響くのだ。」
と、世の中のことすらさっぱり分かっていないこんな私ですが、すべてを悟ったような図々しさだけは、自分でも憎らしいですがずっと健在です(笑)
しかしながら、色々な名言・格言に心を動かされてきた私は、中二の時、僭越にもこのようなことを心に抱きました。
「自分の格言をつくってみたい」と。
およそ中二病だと思われても仕方ないのですが、実際この時私は中二でしたので許してください(笑)
しかし、これはその後の私の人生において、かけがえのない、非常に大きな一部となることなど、この時は全く想像すらしてませんでした。
私が感じた、私の言葉による、私に向けた、私だけの世界が、そこには広がっていました!
中二の時、私の初めての、私に向けた格言です。よろしければ。
「人からの言葉とは、ただの助言にしか過ぎないのであって、自分が自分で決定してこそ、自分という存在として、自分という結果に終るのである」
他人に多様な意見を言われても、それはその人の経験から導き出された考えにしか過ぎず、最後は自ら何らかの結論を出し、それを実行していかなければならない。
それは他でもない私自身という一個体の人間として、結果の良し悪しに関わらず、私というものを通して反映され、今の自分を形成するのである。
中二でしたから、格言とはほど遠く拙い表現ですが、今思えば、迷ったときや困ったときなどに見返すことで、この言葉は私の人生を導く一つの標識になってくれた気がします。
それに気づいたとき、もう一つの文がこの拙い頭に降りてきました。
「自らの格言、座右の銘は他人から聞いたものであるべきではない。自ら歩いて、見つけて、思考して。そして、自分で結論づけたものであるべきだ。」
と。
格言は自分のパーソナリティーの一部となりえます。
世の中の常識なんて、意見が合致した多数派によって構成されるものに過ぎず、それが基準となって定石を広く保たせるための方法の一つ、というだけの規定があいまいな言葉ですよね。
確かに秩序規範意識は大事なもので、道徳的常識などの最低の常識は大切です。しかし世の中には、ガリレオ・ガリレイに代表されるように、「常識」を超える「非常識」が必ずあります。
地動説問題のように、今日非常識であることが明日には常識になる、言い換えれば「明日から今日を見れば今日が非常識になる」ということです。
つまり、世間が言う常識の「常識」など元からなく、当然規定なんかできません。
常識の先駆けとなるのは、必ず世間が言うところの非常識だとおもいます。
道徳的常識以外、常識は自らで作り、それを格言として、自己の道標とすることを、21歳、多感な大学生である私なりにすゝめます(笑)
この機会に「自分だけの格言」をつくってみては。